香港が中華人民共和国の特別行政区になってから20年目を迎えました。
今回はそれについて解説しようと思います。
①そもそも特別行政区とは?
特別行政区というのは1982年の中華人民共和国憲法改正により、できた条文で、それによると
第31条 国家は、必要のある場合は、特別行政区を設置することができる。特別行政区において実施する制度は、具体的状況に照らして、全国人民代表大会が法律でこれを定める。
(原文: 國家在必要時得設立特別行政區。在特別行政區內實行的制度按照具体情況由全國人民代表大會以法律規定。)
とこのように明記してあります。
この条文は元々、台湾向けに作られた条文で、1979年の「台湾同胞へ告げる書」が根拠になっているとも言われています。
しかし、1980年代の状況で台湾を呑み込むというのは現実的ではありませんでした。
そこで、中華人民共和国は当時イギリス領だった香港と、ポルトガル領だったマカオにこの条文を適用することにしました。
中国は交渉の末、1984年に中英共同声明により1997年の香港返還と、1987年に中葡共同声明により1999年のマカオ返還をそれぞれ取り付けさせます。
両植民地には返還後50年は植民地時代のシステムのままの生活様式や政治制度を続けてもいいという保障をしました。
これを一国二制度(中文:一國兩制)といいます。
当時実権を持っていた鄧小平は、台湾併合に向けて、何としてもこの制度を成功させる必要がありました。
しかし、その後このシステムへの信頼性を揺るがせる事件が発生します。
②香港市民を不安に陥れた事件
1989年に、中国共産党総書記だった、胡耀邦が亡くなりました。
彼は民主化要求にも比較的穏健に接しており、国民からの支持もある程度はあったそうです。
そんな胡耀邦の追悼集会が段々変化してきます。
追悼集会は数日で民主化運動に形を変え、指揮者不在のこの運動にはウーアルカイシや王丹などの学生運動家の他、政府系メディアの人民日報や新華社通信などの記者も参加していたことが確認されています。
党幹部は、1989年5月のゴルバチョフ訪中(これにより中ソ和解が実現)よりも前に収束させることで意見が一致したものの、それでも収束は失敗し、運動は長期戦に入りました。
5月19日には戒厳令を布告し、さらなる沈静化への動きを見せましたが、これが却って反感を呼び、デモは拡大していきます。
6月に入るとデモを鎮圧する動きが更に加速し、ついに同月3日夜、人民解放軍の介入が始まり、4日には武力攻撃を行いました。
この事件を天安門事件(中文:六四事件)といいます。
返還を8年後に控えた香港市民はこれに対しいち早く反応します。
当時の英領香港の立法会は天安門事件に対する譴責決議を全会一致で可決し、現在も撤回していません。
中国大陸系の中国銀行(香港)からは、香港市民が預金を50億香港ドル引き出したことが確認されています。
香港市民に衝撃を与えたこの事件は海外移住を加速させる結果となりました。
次回は香港の民主化について取り上げたいと思います。